小津、溝口といえば今でも世界中の映画人から"オズ、クロサワ、ミゾグチ"と言われる位世界的評価の高い映画監督であるが、これ程好対照だった監督もめずらしい。
小津という人は良く知られているとおり、撮影現場に臨んでは一行の科白の変更もなく役者の演技指導も自分のイメージ100%にまでとことんもっていき、美術、小道具、大道具などの変更は一切なし。カメラも自らのぞき、カメラマンの厚田雄春氏曰く”俺はカメラ番なのさ”と言われるくらい自分の思い描いていたとおりにアングルをきめる。まあさすがの小津さんも大映で”浮草”を撮る際に、あの名カメラマン宮川一夫氏と組んだ時は宮川氏のアイデアをかなりいかしたそうだが。
ところが溝口という人は、科白変更どころかシーン全体の科白を脚本家(現場に呼びつけてある)に新たにゼロから考えさせ自分では決定的なことはいわずに”あなたは脚本家でしょう。責任をもってください。”徹底的にいびる。カメラに関しても宮川氏に”もっと良いものがあるでしょう”と蜿蜒とアイデアを出させ絞り上げる。してはいけないとされている大道具の変更(すべての手順が滅茶苦茶になり撮影がとまるから)も日常茶飯事。役者の演技指導も”あなたはプロの役者です。自分で考えて下さい”といった具合。
このやりかたは僕の経験(音楽家として)でも多々あり、このタイプの監督は”漠然と納得できないものがあり、眼の前にこれこれと示されればこれのほうが良いということがわかる”というやっかいなタイプである。
しかし出来上がったものは良い場合が多いのは皮肉である。
ゴダールとトリフォーが絶賛していた”新平家物語” ”雨月物語” ”西鶴一代女”などの溝口健二の傑作はこのようにして出来上がったのである。
”新平家物語”の冒頭の長いワンカットなどは監督としての溝口健二の才なのか、カメラマンの宮川一夫の才なのか。結果よければそういうことはどうでもいいのかな。
”小津さんは自分の好みの中でしか仕事をしなかった。その上好みを自分で知り尽くしていた。だから幸福だったでしょう。しかし、溝口さんは一生自分がなにをやりたいのかわからずに、無茶苦茶に頑張った。苦しい一生だったと思います。”大島渚
残酷なまでに二人の監督人生の違いが象徴されている同業者の発言である。
小津という人は良く知られているとおり、撮影現場に臨んでは一行の科白の変更もなく役者の演技指導も自分のイメージ100%にまでとことんもっていき、美術、小道具、大道具などの変更は一切なし。カメラも自らのぞき、カメラマンの厚田雄春氏曰く”俺はカメラ番なのさ”と言われるくらい自分の思い描いていたとおりにアングルをきめる。まあさすがの小津さんも大映で”浮草”を撮る際に、あの名カメラマン宮川一夫氏と組んだ時は宮川氏のアイデアをかなりいかしたそうだが。
ところが溝口という人は、科白変更どころかシーン全体の科白を脚本家(現場に呼びつけてある)に新たにゼロから考えさせ自分では決定的なことはいわずに”あなたは脚本家でしょう。責任をもってください。”徹底的にいびる。カメラに関しても宮川氏に”もっと良いものがあるでしょう”と蜿蜒とアイデアを出させ絞り上げる。してはいけないとされている大道具の変更(すべての手順が滅茶苦茶になり撮影がとまるから)も日常茶飯事。役者の演技指導も”あなたはプロの役者です。自分で考えて下さい”といった具合。
このやりかたは僕の経験(音楽家として)でも多々あり、このタイプの監督は”漠然と納得できないものがあり、眼の前にこれこれと示されればこれのほうが良いということがわかる”というやっかいなタイプである。
しかし出来上がったものは良い場合が多いのは皮肉である。
ゴダールとトリフォーが絶賛していた”新平家物語” ”雨月物語” ”西鶴一代女”などの溝口健二の傑作はこのようにして出来上がったのである。
”新平家物語”の冒頭の長いワンカットなどは監督としての溝口健二の才なのか、カメラマンの宮川一夫の才なのか。結果よければそういうことはどうでもいいのかな。
”小津さんは自分の好みの中でしか仕事をしなかった。その上好みを自分で知り尽くしていた。だから幸福だったでしょう。しかし、溝口さんは一生自分がなにをやりたいのかわからずに、無茶苦茶に頑張った。苦しい一生だったと思います。”大島渚
残酷なまでに二人の監督人生の違いが象徴されている同業者の発言である。